哲学で言う「存在(有)」は、
「非存在」または「無」の対蹠物ですが、本稿では西洋哲学における「存在」との取り組みに焦点を合わせます。
「存在」については既にギリシャ哲学でパルメニデスが論じています。原文はギリシャ語ですが、ここではディールスの独訳を掲げておきます。
Wohlan, so will ich denn verkünden (Du aber nimm mein Wort zu Ohren), welche Wege der Forschung allein denkbar sind: der eine Weg, daß das Seiende ist und daß es unmöglich nicht sein kann, das ist der Weg der Überzeugung (denn er folgt der Wahrheit), der andere aber, daß es nicht ist und daß dies Nichtsein notwendig sei, dieser Pfad ist (so künde ich Dir) gänzlich unerforschbar. Denn das Nichtseiende kannst Du weder erkennen (es ist ja unausführbar) noch aussprechen. (Parmenides: Fragmente, Über die Natur §4. In: Vorsokratiker S. 116)
よしよし、それではどの探求の道が唯一可能かを言うから、よく耳を澄まして聞きなさい――第一の道は、存在者が存在し、存在しないことが不可能である道であり、これは確信の道である(なぜならこの道は真理に従う道だから)。第二の道は何も存在しない道であり、この非存在が必然であるような道であり、これは(お前に言うが)全く探求不可能な道である。なぜならお前は非存在者など認識することもできない(実現されえないのだから)し、言葉にして言うことすらできないからである。(パルメニデス、ディールス『ソクラテス以前の哲学者達』所収)
「あるものがあり、ないものはない」と言うことから、パルメニデスは存在論( Ontologie - ontology - ontologie )の祖とされています。この言葉自体は17世紀の造語ですが、ギリシャ語の存在者( ὄν, on )と言葉・論理・理論・理性を意味するロゴス( λόγος, logos )からなっています。
Es ist notwendig, daß das Sagen und Denken das Seiende ist; denn das Sein ist, aber das Nichts ist gar nicht. ( Parmenides, Fragmente, Über die Natur §6. In: Hegel, Geschichte der Philosophie, Bd. 1, S. 288 )
言葉にして言うことと考えることが存在するものであることは必然である。というのも、存在は存在する、しかし無は全く存在しないからである。(パルメニデス、ヘーゲル『哲学史』参照)
この節はヘーゲルから採りましたが、この独訳の方が上記のディールスの独訳よりも判然と理解できるでしょう。要するに、思惟が本来の存在者であり、感覚の世界の対象などはまっとうな存在者たりえないと言うことになります。感覚に現れる現象的な世界とは、あるものがなくなり、ないものがあるようになる変化の世界、諸行無常で万物流転の世界ですが、理性により捉えられる真の世界は「あるものがあり、ないものはない」、恒常で不滅の世界だということになります。
Das Denken produziert sich; was produziert wird, ist ein Gedanke; Denken ist also mit seinem Sein identisch, denn es ist /290/ nichts außer dem Sein, dieser großen Affirmation. Plotin […] sagt, daß Parmenides diese Ansicht ergriff, insofern er das Seiende nicht in den sinnlichen Dingen setzte. ( Hegel, l. c., S. 289f.)
思惟は自己を生産する。生産されるものは、思考である。思惟はそれゆえその存在と同一である。というのも存在という、この大いなる肯定以外には何も存在しないからである。プロティノスは【…】パルメニデスが存在者を感覚されるものに措定していない限りにおいて、この見解を採ったと言っている。(ヘーゲル、同上)
プロティノスは後の新プラトン学派の創始者と言われている哲学者です。彼らの思潮は後にマイスター・エックハルトやニコラウス・クザーヌス、ヤーコブ・ベーメなどのドイツ神秘主義に継承されることになりますが、ここではただ存在を思考体と見ているということを確認しておくにとどめます。ただしパルメニデスが変化の彼岸にある恒常なる存在を思考体として見据えたと言っても、この存在は単なる抽象による存在以外のものではありません。ヘーゲルに言わせれば、パルメニデスはまだ悟性の立場から抜けられなかったと言うことになります。これに対して上記の「万物流転」(πάντα ῥεῖ = panta rhei)とは、パルメニデスに若干先立つヘラクレイトスが述べた理性による世界の原理ということになります。
Heraklit sagt nämlich: „Alles fließt […], nichts besteht, noch bleibt es je dasselbe.“ (Hegel, l. c., S. 324)
ヘラクレイトスは言う「万物流転。留まるものはない。また同じものとして存続することもない。」(ヘーゲル、同上)
In dieselben Fluten steigen wir und steigen wir nicht: wir sind und sind nicht. (Vorsokratiker, S. 69, Herakleitos 49)
同じ流れに入り、かつ入らず――我らは存在し、かつ存在せず。(ヘラクレイトス、『ソクラテス以前の哲学者達』所収)
Man kann nicht zweimal in denselben Fluß steigen (Vorsokratiker, S. 75, Herakleitos 91)
人は二度同じ流れに入ることはない(同上)
ヘーゲルによれば、パルメニデスの悟性の立場に対して、それよりも高次の理性の立場に立つヘラクレイトスは、矛盾と対立を発展の原理と見る弁証法的思考の嚆矢と言うことになります(ヘーゲル、同上p. 319ff. 参照)。
Das auseinander Strebende vereinigt sich und aus den verschiedenen Tönen entsteht die schönste Harmonie und alles entsteht durch den Streit. (Herakleitos. In: Vorsokratiker S. 62)
互いに離れようとするものが一つとなり、異なる様々な音から妙なる協和音が奏でられ、そしてものは全て争いから生じる。(ヘラクレイトス)
Die Eleaten sagten, nur das Sein ist, ist das Wahre; die Wahrheit des Seins ist das Werden; Sein ist der erste Gedanke, als unmittelbar. Heraklit sagt: alles ist Werden; dies Werden ist das Prinzip. Dies liegt in dem Ausdrucke „Das Sein ist sowenig als das Nichtsein; das Werden ist und ist auch nicht“. Die schlechthin entgegengesetzten Bestimmungen sind in eins verbunden; wir haben das Sein darin und auch das Nichtsein. Es gehört nicht bloß dazu das Entstehen, sondern auch das Vergehen; beide sind nicht für sich, sondern identisch. Dies hat Heraklit damit ausgesprochen. Das Sein ist nicht, so ist das Nichtsein, und das Nichtsein ist nicht, so ist das Sein; dies ist das Wahre der Identität beider. ( Hegel, l. c., S. 324 )
エレア学派【パルメニデスやゼノン】は存在のみが存在し、真なるものであると言う。【しかし】存在の真理は成である。存在は、直接的なものとしての、第一の思考物である。ヘラクレイトスは全てが成であると言う。この成が原理である。このことが「存在は非存在と同程度に存在しない。成は存在し、かつ存在しない。」と言われていることである。端的に対蹠的に措定された規定が一者の中で結合されている。その中に存在が存在し、また非存在も存在する。そこには単に生起があるのみならず、また消滅もある。両者ともに相互に独立してあるものではなく、同一なものなのである。このことがヘラクレイトスが意味したことである。存在は存在せず、同様にして非存在が存在する。そして非存在は存在せず、同様にして存在が存在する。これが両者の同一性の真なるものである。(ヘーゲル、同上)。
と言うことは、存在は非存在であり、同時に非存在は存在である。言ってみれば、存在の裏を返すとそれは無であるが、同様に無の裏を返してもそれは最初の存在であるに過ぎず、そのため堂々巡りとなります。しかしここで存在が無であり、無が存在であるとのみ見るのではなく、存在が無となり、無が存在となると見れば、「存在の真理は成である」と言うことができます。このことは、後にヘーゲルの項で詳しくみることにしましょう。
(続く)